配置家庭薬の由来


 300年の置き薬物語
 元禄3年(1690年)富山藩主前田正甫公が。江戸城内で激しい腹痛におそわれた大名に「反魂丹」を取り出して服用させたところ、たちどころに腹痛がおさまった。
 いならぶ大名がその効用に驚き、競うように、自藩領内に富山の家庭薬の配置販売を懇請したのが、今日の富山配置家庭薬販売業の始まりとされています。


「売薬」と「置き薬」
 「置き薬」は、正式には「医薬品配置販売業」と言います。かつては「売薬」という呼び名が用いられていましたが、昭和18年、薬事法により「売薬」という言葉が廃止されたため、現在では配置家庭薬と呼ばれています。ただし、販売形態をそのまま表現して「置き薬」という呼び名が一般的となっています。
 以上のようなことから、かつて「売薬さん」と呼ばれていた、置き薬の販売に携わる人たちも、今では「医薬品配置販売業者」とか「配置家庭薬販売業者」、あるいは「配置員」という呼び方をされています。


「懸場帳」って?

 置き薬の販売に携わる者にとって切っても切り離せないのが、「懸場帳」これは、得意先の住所、氏名、配置した薬の銘柄や数量、訪問日、前回までの薬の使用量などを書いておくもの。
 この帳面からは、得意先の健康状態や、かかりやすい病気の傾向、その家庭では、どんな薬がよく使われるか・・など、得意先にまつわる、いろんな情報を読み取ることができます。そのため、得意先に対して、どういった健康管理のアドバイスを行えばよいか、あるいは置き薬の商品構成はどのようにするかなど、商売を円滑に進める上で、なくてはならない存在にあります。
 ですから、懸場帳は単なる顧客リストという意味合いではなく、貴重な財産として、販売業者の間では大切に扱われています。
 懸場帳は従来、手書きによるものでしたが、最近ではOA機器を使ったものも普及しています。
 これですと、商品の在庫管理や顧客管理はもちろんのこと、代金の計算なども瞬時に行えるとあって、利用者は増える傾向にあります。


「先用後利」の精神
 置き薬の販売方法は、医薬品配置販売業の許可を取得した販売業者等が直接、得意先を訪問して、何種類かの薬を予め預けておき、次に訪問した時に得意先が使った分だけの薬の代金を受け取るというもの。
 この販売方法は、今でこそ薬事法にもキチンと定められていますが、江戸時代に置き薬の販売が始まった時から既に用いられており、当時としては画期的な販売方法でした。
 そして、この方法が誕生した背景にあるものこそ、正甫公が説いた「用を先に利を後にせよ」という、いわゆる「先用後利(せんようこうり)」の精神だったのです。
 この精神は、今も脈々と受け継がれ、得意先と信頼関係を築く上で、大きな効果を発揮しています。


「薬を売る前に人を売れ」
 正甫公の命により、配置家庭薬の販売が始まった当初から、「売薬さん」たちの間では「薬を売る前に人を売れ」と言われるほど、得意先との信頼関係を最も大切にしてきました。
 せっかく薬を預けても、必ず使ってあるという保証はどこにもありません。その上、当時は今のように新幹線や飛行機はもちろんのこと、自動車だってない時代。
 にもかかわらず、「売薬さん」たちは、自らの足で長い道のりをかけて得意先を訪ね、病気に悩む顧客の相談に乗って的確なアドバイスを行ったり、時には励ましたりして、生きる希望を与えました。
 また、浪曲や浄瑠璃を語って聞かせるなどし、相手を楽しませたりもしました。
 こうして、病気そのものを治すことだけではなく、心の「癒し」にも努めた「売薬さん」たちの販売姿勢が、やがて得意先からの信頼確保につながり、ひいては、庶民から幅広い支持を集めることにもなったのです。
 同時に、この信頼関係は親から子へ、子から孫へと代々受け継がれ、その結果、三百年余り経った今もなお、配置家庭薬業は地域医療の担い手として、定着しているのです。


苦難の歴史
 多くの「売薬さん」たちの努力によって、「とやまの置き薬」は、長い歴史と伝統を積み重ねてきましたが、その道程は決して平坦なものではありませんでした。
 幕末まで発展を遂げてきた「売薬」が、最初の危機に直面したのは、明治維新の頃。当時の政府は医療の分野での近代化を進めるべく、西洋医学の振興を打ち出しました。そのため、これまで東洋医学に基づいて行われてきた「売薬」は、『いかがわしいもの』とヤリ玉に上げられるばかりか、次第に懲罰的な厳しい政策がとられるようになり、存亡の危機に立たされたのです。
 また、明治三年には「売薬取締規則」が制定され、旧幕府の医学所だった大学東校での検査を受けて免状を取得しなければ営業ができないことになったほか、明治十年には
売薬営業税などといった税が定められました。
 さらに明治十六年には「売薬印紙税」というものが課せられることに。これは、総ての薬に定価を記し、その一割の収入印紙を貼らせるというもの。使われない薬(廃棄分の薬)にまで印紙を貼らなければならず、当時の売薬業者にとっては大きな打撃となりました。